創業~1965年:フェルッチオの情熱から始まったランボルギーニ


フェルッチオが最初に開発した乗用車「350GTV」

ランボルギーニを理解するには、ランボルギーニが生まれ育った土地柄を理解すべきだろう。例えば1本の大木を観察する場合、木そのものを見ると同時に、その木が根ざす大地にも目を向けるべきだ。ランボルギーニは、世界中のどこよりもハイクラスエンジンへの思い入れが強い場所を拠点としている。ポー川流域に広がる渓谷は、サンタアガタ、モデナ、マラネロに囲まれたスポーツカーの「黄金の三角地帯」である。その原動力とは、血であり、経験であり、あるいはこだわりである。もっと簡単に言うならば、純なまでの情熱。スタイルであれ、フォルムであれ、この土地から幾多の革命的コンセプトが生み出されたのは決して偶然ではないのだ。さらに言えば、それらのコンセプトは大規模メーカーでは絶対に不可能なものであった。

温厚な外観の内面に燃えるような情熱をたぎらす人々。緑なす肥沃な大地を縫う道路は、お世辞にも整備されているとは言えない代物。真夏の暑い日、ポー渓谷に乾いたエキゾーストノートが轟くと、人々は一斉に振り返り、その爆音の主が何かを確認したがる。圧倒的パワーを誇るエンジンが誕生し、育まれたのは、エミリア平野を貫く二級道路であった。ドライバーの気持ちを高揚させ、アクセルを床まで踏ませる抗し難い魅力と音楽にもたとえられるV12の咆吼。サンタアガタ・ボロネーゼで生み出された幾多のモデルにも、このDNAが受け継がれている。

「アウトモビリ・ランボルギーニ」の歴史は、1963年に始まった。創業者たるフェルッチオ・ランボルギーニは、1916年生まれの牡牛座。その星座が表すとおり、フェルッチオは有能な経営者であると同時に、頑固で性急な一面も持ち合わせていた。とりわけ創業期および黎明期においては、その人柄が企業理念そのものになっていた。

ラグジュアリースポーツカー・メーカーを立ち上げようと考えた時、彼はすでにひとかどの財をなしていた。フェルッチオは、戦後にトラクター制作会社を設立、持ち前のエネルギーと情熱によって業界内でその名を轟かせる企業へと押し上げることに成功した。その後、さまざまなビジネスに乗り出し、50歳になるまでに幾多の成功を勝ち取った。60年代初頭には、新たな野心を表明。しかし、フェラーリに対抗できるスポーツカーを作る、と自らの意思を明らかにした時は、ついにフェルッチオも正気を失った、と揶揄されたものだった。それは、およそ不可能に近い冒険であり、真っ暗闇の中で谷に向かってジャンプするに等しい。まったく利益を出すことなく、それまでに築き上げた財産を放り出す恐れすらあった。

しかし、ランボルギーニは、いつもどおり「宿題」を完璧にこなしてあった。自ら所有するプレステージ・スポーツカーを分解、その内部にランボルギーニ製トラクターとまったく同じパーツが使われていることを発見していたのだ。唯一の違いは、価格に3倍以上の開きがあったこと。尊敬と畏怖の念を集めていたエンツォ・フェラーリを前にしても一歩も引かず、厳しいコメントの応酬に終始したとの逸話も残っている。非常に情熱的な男であると同時に、経営者として自らのニュープロジェクトを精査、プレステージカーの製作に大きなビジネスポテンシャルがあることも見出していた。

1962年終わりにプロジェクトを立ち上げると、翌1963年5月には「アウトモビリ・フェルッチオ・ランボルギーニ」を設立する展開の早さを見せる。ボローニャから25kmのサンタアガタ・ボロネーゼに巨大な土地を購入し、時代の最先端を行くファクトリー建設に着手。トラクター製造の経験を持つフェルッチオには、ライバルに勝つには最新鋭の設備を備えた機能的な工場が必要であることがわかっていたのだ。光溢れる巨大なファクトリーのすぐ横に事務棟をレイアウト。経営陣がいつでも製造現場を訪れ、自らの目で進捗状況を確認するためのアイデアである。何か問題があるとわかると、すぐにワイシャツの裾を捲り上げ、製造の第一線に関わってきたフェルッチオには、理想的なレイアウトだった。

ランボルギーニの第1号モデルは、瞬く間に製作された。ファクトリーを立ち上げた際、フェルッチオは第1号モデルの公式発表日を1963年11月のトリノモーターショーと決めていたのだ。ランボルギーニとしてどんなクルマを製作すべきか、明確なアイデアを持っていたフェルッチオは、すぐに適切な人材を選び出した。エンジンは絶対にV12であること。しかも、黄金の三角地帯で製作されるすべてのパワーユニットを凌駕していなければならない。言い方を変えれば、世界最高のV12を製作することにほかならなかった。フェルッチオは、フェラーリV12の設計製作に関わったジオット・ビッツァリーニに白羽の矢を立てた。シャーシやボディワークの設計製作とエンジニアリングには、ジャンパオロ・ダラーラとジャンパオロ・スタンツァーニというふたりの有能なエンジニアを起用した。彼らの年齢を合計しても50歳に満たないという若手だったが、才能と情熱に疑いの余地はなかった。フェルッチオは、ふたりに自らの考えを余すことなく伝えた。1963年、彼はイタリアのモータージャーナリスト、アトス・エヴァンゲリスティのインタビューを受けた際、次のように語った。「……私自身、著名なグランツーリズモを所有したことがあるが、いずれも欠点があった。コクピットが暑すぎたり、快適とはほど遠かったり、あるいは期待したほど速くなかったり、仕上げも完璧とは言えなかった。まったく欠点のないGTを作れないものか。技術的に進んでいるかどうかではなく、ノーマルでコンベンショナル、しかし、パーフェクトと呼べるクルマを作りたいのだ」。

これは相当な冒険であったが、彼に許された時間は短い。昼夜を徹して製作されたファーストモデル、ランボルギーニ350GTVは、公式発表の時点で傑作と呼べるレベルに仕上げられていた。少なくともメカニズムの点では、創業者のニーズに完璧に応えていた。だが、カロッツェリア・ベルトーネのデザイナーでもあったフランコ・スカリオーネの手になるボディには、実用性が欠けていた。ラインは非常にドラマチックだったものの、GTというよりバットモービルだった。突き出たノーズ、巨大なグラスエリア、長尺リアウィンドーといったディテールは、スカリオーネのトレードマーク。特に長く伸びたリアウィンドーのおかげで、トランクリッド開口部に大きな制約が生じてしまった。さらに表面処理やディテールに目をやっても、ショーカーとしては適切ではあったが、およそプロダクションカーとは呼べない代物だった。他方、3.5リッターV12は、ベンチテストで簡単に360hpを発揮し、その咆吼もトップレベルのレーシングエンジンを彷彿とさせるほどであった。4輪独立懸架サスペンションは、当時のGTとしては革新的だった。また、ギアボックスからブレーキまで、サプライヤーから供給されるコンポーネントは一級品ばかり。すべてに最良を追求するフェルッチオのコンセプトは、ここにも見て取れる。

いずれにしても、ランボルギーニは、非常に狭く、しかし競争の激しい市場セグメントにデビュー。フェラーリ、マセラティ、アストンマーティン、ジャガーなどごく一部のメーカーにのみ許されたセグメントに登場した新メーカーは、ちょっとしたセンセーションを呼び起こした。実績もなければ経験もないランボルギーニが果たしてやっていけるのか、疑問の目を向ける向きは決して少なくなかった。だが、フェルッチオを良く知る者は、「見ていなさい。ランボルギーニには自分が何をなすべきかハッキリとわかっている」とコメントした。


フェリーチェ・ビアンキ・アンデレローニによる「350GT」

1964年。スカリオーネのデザインしたボディに冷ややかな反応が集まったとわかると、ランボルギーニは即座に対応する。一般に受け入れられるボディにするため、デザインを一からやり直す決断を下したのだ。彼が選んだのは、ミラノに本拠を置くカロッツェリア・トゥーリング。その任に当たったフェリーチェ・ビアンキ・アンデレローニは、高い独創性を有しながらも極端に走ることのない、見事な仕事でフェルッチオの期待に応える。350GTの誕生である。ランボルギーニ・ミュージアムには、完璧なコンディションに保たれた350GTが展示されている。

この2シーター・ベルリネッタは、売れる要素をすべて持ち合わせていたものの、すぐに爆発的成功を勝ち取ることはなかった。フェラーリやマセラティといった老舗を袖にして、トラクターメーカーが作ったクルマに大枚を叩こうなどという好事家は多くはいなかったのである。評判はどうかちょっと待つべきだ、いや、複数のモデルが登場するまで様子を見た方がいい。ランボルギーニは、そんな市場の反応にもしっかりと応えた。米国を代表するモータージャーナリスト、ヘンリー・マンニーIIIは、「Car」誌1965年7月号で350GTを取り上げ、その中で次のように記した。「このクルマは、フェラーリの頭痛の種となる可能性を秘めている。ランボルギーニは、私が運転したスポーツカーの中でもっとも好ましい」。米英の代表的自動車雑誌に寄稿するマンニーは、フェラーリカスタマーであり、当時は250GTOを所有していた。350GTは135台が製作され、バトンを400GTに渡すことになる。4.0リッターに拡大されたエンジンには、ランボルギーニ内製のギアボックスが組み合わされた。当初は350GTと同様の2シーターだったが、後にリアに緊急用の2座が追加され、400GT 2+2に発展した。この「マイナーチェンジ」が功を奏し、生産台数は前任モデルを上回る273台に達する。

これより少し前、1965年初めになると、サンタアガタ発のクーペはようやく認知されるようになった。同時にエンスージアストたちは、コーチワークの標準からはかけ離れた異形のボディワークの下に、卓越したクオリティのメカニズムが隠れていることに気づき始める。ランボルギーニ350GTは、速いクルマであるのはもちろん、長距離でも快適なクルマ、ということだ。セールスも徐々に上向き始める。もっとも、エリートクラスをターゲットにしたクルマであるからして、その数字は必ずしも大きくはなかった。


カスタマーに認知され生産台数を伸ばした「400GT」

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