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1965~67年:ミウラが切り開いたランボルギーニ第一期黄金時代

アグレッシブとエレガンスを見事にバランスさせた「ミウラ」
ランボルギーニは、早々と第一期黄金時代を迎える。多産で創造性に富んだ時期だった。1965年11月から1966年6月の短い時期には、矢継ぎ早にニューモデルがデビューする。ザガートボディを纏う3500GT、トゥーリングの手になる350スパイダー、ネリ・エ・ボナチーニ作のモンツァ400などは基本的にプロトタイプにすぎなかったが、1965年トリノモーターショーのランボルギーニ・ブースに登場したエキゾチックなモデルは、同社のみならず、自動車業界全体に強いインパクトを与えた。
こうしたプロトタイプ製作の原動力となったのは、ランボルギーニファクトリーで技術部門をリードするふたりの若手エンジニア。偶然にも同じ名前を持つダラーラとスタンツァーニは、情熱に溢れていた。フェルッチオの後ろ盾を得たふたりは、自由闊達にその精神を発揮させ、先進的なアイデアを次々にモノにする。彼らの心を捉え、そして彼らがモチーフとしたのは、当時を代表する2シーター・スポーツカー、その名もフォードGT40である。米国生まれの流麗なモデルは、ジャガー、マセラティ、フェラーリ、アストンマーティンらが築いた50年代の方程式とは一線を画す新たなコンセプトに立脚していた。それまでのスーパーカーと言えば、チューブラーフレーム構造のフロントに大排気量エンジンを搭載し、アルミニウム製の軽量ボディを被せたもの、と相場が決まっていた。GT40が代表する新たな潮流は、シートメタルを加工したシャーシのミッドエリアにパワーユニットを搭載するレイアウト。これにより、重量配分は大幅に改善され、支持構造体の堅牢性も驚くほど向上されただけでなく、新たなデザイン自由度ももたらされる。
伝統的なグランドツアラーに新たな定義を与えるのではなく、完全に熟成されたレースカーをロードバージョンに進化させる。ダラーラとスタンツァーニの狙いはここにあった。暫定的に400TPのコードネームで呼ばれたプロジェクトカーは、400GTから4.0リッターV12エンジンを受け継ぎ、コクピットの後方に横置きレイアウトするもの。ギアボックスとディファレンシャルはエンジンと一体化し、単一のケースに収められる。元来が軽量のシートメタル製シャーシには、ドリルでさらに穴を開けていっそうの軽量化が図られた。非常に完成度の高いプロジェクトだったものの、1965年当時はこれが量産車として実現する可能性はほとんどなかった。フェルッチオは、再三にわたって、自らの希望は未来的なクルマをこの世に送り出すことではなく、ごく「ノーマル」で、超高速の移動を可能にする欠点のないクルマであることを強調していた。一方、ふたりの若き才能には、(少なくとも見た目は)オーナーの期待と逆行するクルマを提案する勇気と信念があった。400TPの速さには疑いの余地はなかったものの、ノイジーであることも事実だった。テストに臨んだ際には、完全にトラブルフリーでこれを乗り切らなければならない。さらに、エキサイティングでウルトラモダンであることも要求された。
プロジェクトの説明を受けたフェルッチオは、直ちにゴーサインを出す。十中八九承認は無理、と覚悟を決めていたダラーラとスタンツァーニにとって、嬉しい誤算だった。フェルッチオは、単純に宣伝効果を期待して承認を下しただけであり、最大でも50台が売れたら御の字と考えていたらしい。しかし、彼の予想はいい意味で裏切られることになる。
例によって、量産バージョンは昼夜を徹して仕上げられ、同年10月のトリノモーターショーでワールドプレミアを迎える。業界筋はもとより、一般ユーザーも好奇心と興味、懐疑心、さらには不信感とともにランボルギーニの出方を窺っていたが、当時の反応は概ね次のような具合だった。ランボルギーニは「ノーマルカー」を作るのではなかったのか?だが、見ろ、このボディを、メカニズムを!シャーシにはいくつも穴が開けられ、小型飛行機を思わせる。エンジンはコクピット後ろに鎮座していた。ショーカーなら十分に頷ける。しかし、これが量産車として日の目を見ることはないだろう。
このシャーシデザインを、否、ランボルギーニの可能性を信じた男がいた。その名はヌチオ・ベルトーネ。トリノでカロッツェリアを率いる彼は、エンジンと自動車のエキスパートとして知られていた。400TPを見た直後にランボルギーニにアプローチをかけ、こんな名台詞を吐いた。「私ならあなたにぴったりの靴を作れますよ」。フェルッチオとヌチオは固い握手。自動車業界でもっとも奇妙な、しかし発見の多い冒険はこうして始まった。デザイン部門を率いたジョルジョット・ジウジアーロは、ベルトーネを離れて自身のカロッツェリア、イタルデザインを立ち上げたばかりだった。そしてベルトーネにおいて、ジウジアーロの後任としてデザインチーフに収まったのは、ダラーラやスタンツァーニと同世代のマルチェロ・ガンディーニ。ベルトーネのアイデアを具現化し、シャーシにふさわしいユニークでセンセーショナルなボディをデザインすることがガンディーニの役目となった。アグレッシブとエレガンスを見事にバランスさせ、オリジナリティ溢れる新たなランボルギーニには、ミウラという変わった名称が与えられる。
なぜこの名前が付けられたのか。フェルッチオは牡牛座生まれ、ランボルギーニのシンボルはファイティングブル、そしてミウラとは数々の名牛を生み出したスペインの闘牛家の名字である。確かに共通点はあるものの、フェルッチオが一体どういう経緯でこの名を採用したのか、当の本人も語ろうとはしなかった。偶然か意図的かはさておき、フェルッチオがこれ以上ないという選択をしたことは紛れもない事実だろう。
ミウラ牧場産出の闘牛は、単なる闘牛の域を超えていたという。身体能力は言うまでもなく、非常に賢いうえに残忍性も持ち合わせていた。ミウラ産の闘牛こそ本物のファイターだった、と畏怖の念とともに語る闘牛士も数多くいた。跳ね馬を脅かすスーパーカーの名称として、これほど適切なものはない。しかも簡潔でわかりやすい。だが、ランボルギーニは、ドン・アントニオ・ミウラと会ったことはなかった。当初はイタリアのクルマに許可なく自らの名が冠されることに不快感を覚えたミウラだったが、後にフェルッチオの選択に感謝し、幾度となくセビリアの豪華な牧場に彼を招待したという。
ミウラ・プロジェクトは驚異的なペースで進められた。ガンディーニによれば、1965年10月から翌年2月まで、休む暇もなく1日24時間働きづめだったらしい。プロジェクトに関与したすべての人間には、明確な目標があった。1966年のジュネーブモーターショーでミウラを初公開する。さらにこのプロジェクトには、単なるショーカーの製作以上の困難さがつきまとっていた。デビュー直後の量産がすでに決定していたのだ。ロードカーに不適切と思われるソリューションはすべて排除しなければならない。その仕事量は尋常ではなく、試練の連続だったが、ミウラ実現に賭ける男たちの情熱がケミストリーとシナジーを生み出し、通常のレベルをはるかに超えた次元でプロトタイプが完成する。ガンディーニの特徴的なラインは余すところなく再現され、シャーシ製作にも大きな問題はなかった。テストでは、いくつか問題点が指摘されたものの、それもマイナーな部類にすぎなかった。1965年秋に登場したミウラは、純粋なスタディモデルだったが、わずか4ヶ月後には完成度の高い量産車に仕上げられていた。
ミウラがジュネーブショーの主役となったことは言うまでもない。あまりにも先進的すぎて量産は不可能、と語った者も、誇らしげな姿を見せるロードバージョンを前に、言葉を失い、心の底では何とも言えないエクスタシーを覚えるほかなかった。世界各国からオーダーの嵐。ここでランボルギーニは、次の一手を打つ。フォーミュラワンのクラシックであり、華やかな社交の場でもあるモナコGPにミウラを持ち込んだのである。オテル・ド・パリの真ん前に駐車されたオレンジのそれは、一躍注目の的。カジノ広場は時ならぬ大渋滞に見舞われる。エンスージアストは情熱を駆り立てられ、オーダーはさらに増加。ミウラは瞬く間に圧倒的な成功を勝ち取った。

カロッツェリア・トゥーリングによるプロトタイプ「フライングスターII」
1967年10月。トリノモーターショーでデビューしてからわずか3年後、ランボルギーニには蒼々たるモデルが揃っていた。350GTは、この時点で公式ラインナップに加えられていたが、実際はすでに生産を終了。ランボルギーニ・ブースでダブルアクトを務めたのは、400GT 2+2クーペとミウラだった。さらにカロッツェリア・トゥーリングは、400GTのフロントエンジン・シャーシをベースとして、オリジナルカーのフライングスターIIを展示したものの、同カロッツェリアはほどなく倒産。イタリアン・スポーツカー栄光の歴史を飾った名門は、こうして姿を消して行ったが、その貢献が色褪せることはない。
サンタアガタには、ミウラのオーダーが押し寄せ、キャッシュフローも大きく改善された。それ以上に大きかったのは精神的効果。ランボルギーニ・ミウラは、何物にも代えられない希有なモデルとして、人々の好奇心をくすぐり、企業PRに大きく寄与した。ランボルギーニがようやく明るい未来に描けるようになったのは、やはり1967年である、と結論づけて良さそうだ。ランボルギーニの方向性は正しかった。ミウラのようなクルマは、世界中の自動車愛好家の魂に訴求し、その心を掴んで離さなかった。ミウラの成功とともに、ランボルギーニの名を一躍高めると同時に、ファイティングブルのエンブレムこそ、万難を排して常に「一歩先」を目指す精神のシンボルであり、既成概念に囚われることなく、唯一無二の仕事をする決意の現れである、と解釈されるようになった。400GTはすでに成熟のモデルとしてブランドの中核を担い、ミウラはプレステージの象徴としてイメージリーダーの役割を果たした。
また、ベルトーネとガンディーニは、リアアクスル後方にエンジンを横置きする4シーターコンセプトを提案した。マルツァルと銘々されたそれには、後にランボルギーニ・トップエンドのデザインボキャブラリーとなるガルウィングが同社史上初めて採用されていた。
マルツァルには、しかし、量産モデルに発展する可能性はなかった。あらかじめ設定されていたボディサイズに合わせるため、ランボルギーニの代名詞であるハイパワーや洗練性といった要素が意図的に落とされていたのだ。リアアクスル後方にマウントされるのは、クラシックなV12ではなく、2.0リッターの直列6気筒エンジン。最高出力も180hpにすぎず、ファイティングブルのエンブレムを纏うモデルに期待されるパフォーマンスにはほど遠かった。だが、マルツァルは、それでも各国モーターショーのスター的存在であり、さまざまな雑誌の表紙を飾った。1967年のモナコGPでは、レーニエ大公が颯爽とステアリングを握り、パッセンジャーシートには愛しのグレース王妃。これもまた、フェルッチオが仕掛けたPRの一貫であった。

モナコGPで、レーニエ大公がステアリングを握って走る「マルツァル」。

































