1968~69年:ミウラとエスパーダが牽引するランボルギーニの野望


「ランボルギーニ エスパーダ II」シリーズ

当時のランボルギーニは、いわばイメージ先行の企業。1967年、コンセプトカーとしてブランドイメージの向上に大きく貢献したミウラも、そろそろ量産に移すべき時期が来ていた。さまざまな犠牲を払い、並々ならぬ努力とコミットメントの結果、ようやくロードバージョンのミウラが日の目を見た。とはいうものの、初期トラブルも少なくなかった。改良に改良を重ねて、量産型ミウラはどうにかクルマらしいクルマになったが、ランボルギーニカスタマーはほとんどトラブルなど気にしなかった。ランボルギーニ・ミウラとは、すでに富の象徴として定着していたのだ。プライスタグは今のムルシエラゴに匹敵し、ムルシエラゴの何倍ものメンテナンスやケアを要求する。何にも増して若さのシンボル(少なくとも精神的な若さ)でもあった。車高があまりにも低いため、乗り降りには体操選手レベルの敏捷性が必要だった。いくらリッチでも、いくらクルマが好きでも、乗り降りのだけのためにフィットネスに励む物好きはそれほど多くなかった。

ミウラは、時代を象徴するファッショナブルカーでもあった。その意味では、ミニと肩を並べる存在。しかし、興味深いことに両車のポジショニングはまさに対極だった。ランボルギーニ・ミウラとは、オーナーの闊達な精神と人生を謳歌するスタイル、モビリティの自由を象徴する存在であり、富裕層のマストバイとみなされていた。高速道路ブームが到来したばかり。一直線に続く道は渋滞とは無縁、しかも速度制限はほとんど課されていなかったのだ。フィアット500や600が溢れかえり、1100やアルファロメオ・ジュリエッタが高級車だったイタリアにおいて、ミウラは280km/hの最高速度を誇っていた。ミニスカートが大ブームとなり、「joie de vivre(生きる歓び)」がキーワードだった時代。人々のライフスタイルや生活信条が革命的に変化した時期を見事に反映し、これを具現化していたのがミウラである。大胆なカラーリングも時代のシンボルにふさわしかった。鈍色に覆い尽くされた道路を驀進するダークオレンジやアシッドグリーンのミウラ。金魚の水槽で暴れまくるサメを彷彿とさせた。ミウラあるところ、すべてのクルマの存在が消される。映画スター、起業家、ミュージシャン、王族の心を掴んだことは言うまでもない。当時のランボルギーニの顧客リストには、パーレビ国王、フランク・シナトラ、ディーン・マーティンなどが名を連ねていた。

ダラーラとスタンツァーニにニュージーランド出身のテストドライバー、ボブ・ウォレスが加わって、量産モデルの改良が続けられた。一方、フェルッチオは、持ち前のアイデア精神を発揮してニューモデルのプレゼンテーションに励む。1968年のブリュッセルモーターショーには、ミウラ・ロードスターが登場。まずはショーモデルで顧客の反応を見て、これを試金石として量産の可否を判断する。市場からの反応は華々しかったが、オーダーは予想以上に少なく、ロードスターバージョンの量産が行われることはなかった。同年2月16日、イスレロがメディアに初公開された。645万リラのプライスタグを掲げる高額モデルは、300hpのエンジンを搭載。インテリアの快適性と仕上げクオリティが格段に向上され、ランボルギーニの名にふさわしい技術レベルと完成度を誇っていた。カロッツェリア・トゥーリングの消滅とともに量産が終了した400GTの正当継承者であり、フェルッチオが夢に見たグランドツアラー。トゥーリングに在籍した経験のあるデザイナー、マリオ・マラッツィが描き出す流麗な2+2クーペラインと400GTのメカニズムを融合するクルマ。だが、ミウラがあまりにも強い個性を放っていたため、イスレロはその煽りを喰らってしまう。オーダーは中庸なレベルにとどまった。

同年ジュネーブショーでは、新たなスタディモデルがワールドプレミアを迎える。エスパーダと命名された2ドアモデルは、フロントエンジン/リアドライブの古典的レイアウトを採用、4座の非常に快適なシートを備えていた。マルツァルを彷彿させるところもないわけではなかったが、2,650mmの長尺ホイールベースがもたらすフォルムには、革新性と独自性が満ち溢れていた。マルチェロ・ガンディーニがデザイナーとして最高の時期にあった時に生み出された、おそらくは彼の最高傑作である。ふたつの巨大なボリュームがもたらす絶妙のバランス感、巨大なリアウィンドーはそのままトランクリッドとなり、同じく巨大でフラットなボンネットは1ピース構造を採る。テーパー処理が施されたウェストラインはあくまで低い位置に。リアホイールはその一部がホイールアーチ下に隠されている。ボンネットに施されたNACAダクトも、見る者の目を奪った。ランボルギーニはすでに一流GTカーメーカーの仲間入りを果たし、さらにエスパーダのポテンシャルは誰の目にも明らか。再びオーダーが殺到する。

しかし、ランボルギーニの規模を考えれば、この市場ニーズに応じることはほとんど不可能な芸当だった。社内技術チームはもちろん、サプライヤー、組立工、経営陣の誰もがすでに限界レベル。1966年初めに「ミウラ現象」に見舞われるまで、このメーカーは北イタリア屈指のエンジニアリングカンパニーとして知られていた。それ以降は、とにかくオーダーに応えるために作業レベルを倍以上に引き上げなければならず、量産と平行していくつものコンセプトスタディ・プロジェクトもこなさなければならなかった。ランボルギーニが市場で認知され、モデル人気が高まったために、量産上の問題が発生したことは皮肉というほかはない。ただし、カスタマーにしてみれば、ランボルギーニにスポーツカーの未来を感じてオーダーしたのだから、一刻も早くステアリングを握りたい、と考えるのが人情である。

プロトタイプを量産仕様に発展させるには、さまざまな技術的困難がつきまとう。それが原因で、経済的成功を手にできない、というジレンマもあった。実際、1968年中のデリバリーは、エスパーダが37台とミウラが187台、それにイスレロが数台という有様だった。しかし、フェルッチオの信念が揺らぐことはなかった。設立後たった5年で、彼は自らの自動車会社をレジェンドと呼べる存在に押し上げたのである。


様々なイノベーションが取り入れられた「ミウラS」

スタッフやサプライヤーも、ただ手をこまねいていたわけではない。1969年初頭、3モデル(イスレロ、エスパーダ、ミウラ)の製造ラインがようやく軌道に乗る。それより少し前から、ランボルギーニはモデル(特にミウラ)の改良に乗り出し、ミウラSというニューモデルが誕生する。1968年11月に完成した同モデルは、スタンダード比+20hpとなる370hpの最高出力を誇る。ワールドプレミアには、当然のようにトリノモーターショーが選ばれた。インテリアの充実も図られ、パワーウィンドーが標準装備されたほか、エアコンディショナー(少なくともヨーロッパでは贅沢品)やレザー内装がオプション設定された。ただし、ミウラとの外観上の差別点は、一部パーツにクローム処理が施されたところと、テールパネルにSをモチーフとする稲妻エンブレムが追加されたことくらいである。なお、Sバージョンのデビューにより、オリジナル・ミウラの製造が終了した。

イノベーションの対象は、ミウラだけにとどまらない。フェルッチオは、シトロエン特有のゆったりした乗り心地が大のお気に入りであることを隠さなかった。シトロエンのシステムに影響を受け、エスパーダにハイドロニューマティック・サスペンションをオプション設定、ランコマティックの名称を与えた。このサスペンションは、非常に上質な乗り心地を提供したものの、同じくオプション設定されたオートマチックトランスミッションと同様、業界の好事家以外の注目を集めることはなかった。しかしながら、常に最上を追求するランボルギーニの姿勢を現す好例であったことに何ら疑いはない。他方、イスレロには、パワーアップが図られるとともにマイナーチェンジが施される。1969年5月31日にイスレロGTSが登場。350hpのハイパワーエンジンを搭載し、快適性も高レベルに達し、しかも流麗なラインを誇っていたが、ミウラはおろか、エスパーダの後塵を拝することになる。


高い技術レベルと完成度を誇った「イスレロGTS」

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