1970~72年:カウンタックの登場とフェルッチオとの決別


ガンディーニの叡智が集結されたLP500、「カウンタック」

1970年、ランボルギーニのモデルラインナップはようやく落ち着きを見せる。上記の理由から、イスレロは合計225台(イスレロとイスレロGTSの合計)という中庸な製造台数を残して、静かに終焉の時を迎えた。エスパーダは、技術アップデートとスタイリングの改良を受けてセリエIIに進化。同年ブリュッセルモーターショーに出展された。ミウラSとともに2モデル構成に減少したものの、販売台数は徐々に増加する。特にエスパーダ・セリエIIは、前任モデルと比較してさまざまな改良が施され、モデルとしての魅力もいっそう向上されている。たとえば、エンジンは350hpに増強され、これに合わせてパワフルなベンチレーテッド・ディスクブレーキを採用。ダッシュボードは、コンベンショナルなタイプに変更されている。エスパーダは、この時期のランボルギーニの成功に実質的な貢献を果たすと同時に、フェルッチオが創業当時に思い描いた理想のクルマを具現化していた。ランボルギーニは、1970年だけで228台のエスパーダをこの世に送り出した。その価格とエクスクルーシブ性を考えると、驚異的な数字と言っていい。

ランボルギーニの野望はとどまるところを知らない。純然たる2シーターのミウラSと、ラグジュアリー4シーターのエスパーダ・セリエIIの間にギャップがあるのだ。それを埋めるべきは、イタリア伝統の2+2グランツーリズモである。ベルトーネは、イスレロをベースとして、これにエスパーダで採用したデザインボキャブラリーを組み合わせ、新たなモデルを提案した。その名はハラマ。1970年のジュネーブモーターショーでデビューを飾ったものの、市場の評価は期待どおりのものではなかった。パワフルで個性的、しかも上質の仕上げが施されたモデルではあったが、真の傑作と呼ぶにはスペクタクル性が足りなかったのである。ウェッジのきついストレートラインで構成されたルーフラインが特徴的。しかし、フロントとリアのバランス感を欠くとの指摘は正鵠を射たものだったが、当時のデザイントレンドに即したものでもあった。つまり、ハラマは70年代の申し子だったのだ。リアエンドデザインには、ピニンファリーナの影響が見て取れ、全体的に空気を切り裂くようなエレガントなフォルムを持っていたものの、イスレロと同様のジレンマに陥った。ランボルギーニは富と成功の象徴であり、敢えて行き過ぎの部分も期待された。ランボルギーニは、他のメーカーでは絶対に不可能な哲学とデザインを有していなければならず、そのモデルは常に孤高の存在でなければならない。論理的で合理的な「ノーマルカー」を製作しても、市場ニーズに応えたことにはならず、したがって、成功には繋がらなかったのである。


トリノモーターショーで人気を集めた「ウラッコ」

同年のランボルギーニは、ラジカルで「他とは違う」プロトタイプも発表していた。伝説の闘牛から名を取った点も、リアにエンジンを横置きした点も、スポーティなシルエットにパワフルなビジュアルインパクトをちりばめる点も、マーケットが期待するランボルギーニ伝統の方程式に則っていた。P250ウラッコの名で知られるプロトタイプは、しかし、ミウラ以上に幅広い顧客に訴求しようと、スタンツァーニ作の2.5リッターエンジンを採用、これをベルトーネの華麗なボディに搭載し、大規模量産(あくまでイタリアン・スポーツカーとして)を視野に捉えていた。少なくとも理論上は、ミウラよりはるかに安価で優れたパフォーマンスを発揮するモデルだった。

ウラッコを量産するため、ランボルギーニは既設ファクトリーの隣に500m2の新ファクトリーを建設した。1970年10月のトリノモーターショーに出展されたウラッコには、すぐに多数のオーダーが集中する。ミウラと同様、カスタマーはニューランボルギーニのポテンシャルに魅了された。しかも、今回は比較的安価な価格設定だったため、オーダーを躊躇う顧客はほとんどいなかった。

Sバージョンに進化したミウラは、クオリティが大幅に改善され、マーケットポジションを固めることになる。ランボルギーニは、可能なかぎりのハイペースで車両の製作を行ったが、各国からのオーダーは後を絶たず、常に数百台レベルのバックオーダーを抱えていた。なお、ミウラ・ロードスターのプロトタイプは、米国の国際鉛亜鉛研究機構(ILZRO)に売却された。その名称が示すとおり、ILZROは、鉛や亜鉛を含有する合金の技術研究開発と普及を行う非営利団体であり、購入したロードスターには、亜鉛コンポーネントが多数装着されることになる。ILZROロードスターは、走る広告塔として活躍。現在でもこのクルマは存在する。また、エアコンディショナー、ミニバー、TVを標準装備するエスパーダVIPバージョンも登場した。


ミウラのレーシングバージョンとなる「イオタ」

ランボルギーニの歴史を語るうえで、ミウラ・レーシングバージョンは絶対に忘れてはならない存在だ。開発を担当したテストドライバーのウォレスは、同車にイオタの名称を与える。残念ながら闘牛の名前ではないものの、スペイン舞踏の一形式を表す名称であり、イベリア風味の名前をつけるというランボルギーニの伝統にも則していた。イオタは単なる化粧直しバージョンではなく、ミウラの基本メカニズム(横置きミドシップ)とボディデザインをベースとする純然たるレーシングカーである。ただし、シャーシはチューブラーエレメントとシートメタルで新設計、溶接と接着を適材適所に用いてボディ剛性を最高レベルまで引き上げている。ボディワークにはアルミニウムが用いられた。さらにエンジンの強化も図られ、最高出力は440hp/8,500rpmに達していた。

その一方で、わずか890kgの重量にとどめられた結果、イオタは0~100km/hを3.6秒で加速する実力を獲得した。強化シャーシとレーシングサスペンション、前後トレッドの拡幅、ホイールベースの延長、レース仕様のカンパニョーロ・マグネシウムホイールの採用と、およそ考えられるすべての手段が講じられている。プレキシグラスに覆われたヘッドライトにも変更が加えられ、フロントからはグリルが取り払われた。トレッドの拡幅に伴い、圧倒的な存在感を見せるフェンダーフレアも装着。サイドウィンドーはスライドタイプに置き換えられ、カンパニョーロのアロイホイールが全体シルエットを引き締める。レーシングカーそのものといった外観は、ファンの好奇心と興味を駆り立てる。イオタはレース参戦の前奏曲ではないか?そんな期待にもかかわらず、ランボルギーニがモータースポーツに乗り出すことはなかった。イオタはあくまで実験車両と位置づけられ、その使命を終えると北イタリアのディーラーに売却された。しかし、納車の当日、派手なクラッシュを演じ、完全に破壊されてしまう。ランボルギーニの歴史で重要な役割を果たし、ミュージアムの主役となるべきワンオフモデル、イオタは、こうして消滅したのである。

翌1971年、ランボルギーニはピークを迎える。フェルッチオがまったくの白紙から自動車メーカーを立ち上げ、たった8年で世界にその名を轟かせただけでなく、早くもレジェンドと呼ばれる存在になった。歴代モデル(とりわけミウラ)は、最大のライバル、マラネロ産スポーツカーを相手にしても一歩もヒケを取らなかった。加えて、ランボルギーニはモータースポーツに一切の投資をしていない。フェルッチオには、モータースポーツはスポーツカーのPRや販売強化に貢献しない、との揺るぎない信念があった。この時点で、すでに彼の正しさが証明されたことになる。

フェルッチオは、アウトモビリ・ランボルギーニ設立後も、油圧システムや各種コンポーネントを製造する企業も立ち上げ、常に前に向かって進んでいた。彼は社長であると同時にモチベーターでもあり、エンジニアリングチームを鼓舞してミウラのさらなる改良に着手させる。この改良には、イオタプロジェクトで得た経験とデータが活かされ、究極のミウラ、ミウラSVが誕生する。1971年ジュネーブショーでデビューしたSVバージョンは、ロー&ワイドフォルムがさらに強調されるとともに、極太タイヤが装着され、そのスタイリングからも凄味を感じさせた。エンジンは385hpに強化。美しさと速さを両立させていた。シャーシにはヘビーゲージのシートメタルが使われ、ボディ剛性が向上。サスペンションにはファインチューンが施された。加えて、ついにエンジンとギアボックスの潤滑システムが独立した点も見逃してはならないだろう。これら数々の改良により、ミウラSVは史上最強ミウラの呼び声も高い。

しかし、1971年ジュネーブショーでの評判は必ずしも良好ではなかった。ファンが期待したのは、ミウラをはるかに上回るスーパーランボルギーニ。同ブランドブースの花形になるだけでは足りず、ショーそのものの代名詞となるスーパーカーの登場だった。フェルッチオがこの点を忘れるはずもなく、水面下でニューモデル開発プログラムが始められていた。ベルトーネ、スタンツァーニ、ガンディーニの叡智が集結されたプロトタイプには、LP500のコードネームが与えられる。一般には、むしろ「カウンタック」と呼んだ方がよいだろう。

カウンタックは、その特徴的なラインに表現されるとおり、すべてが革命的なモデルだった。実際、モーターショーでカウンタックを目の当たりにした者は、あまりの衝撃に言葉を失ったという。ウェッジが効いたノーズ、ボンネットやルーフとフラッシュサーフェス化されたフロントスクリーン、ルーフラインは伸びやかにリアエンドまで繋がり、巨大なストロークを描き出す。そしてサイドシルエットは、フロントフェンダーからテールエンドまで1本のラインが貫通。革新的、驚異的、先進的。あらゆる賞賛の形容詞が当てはまるオリジナリティ溢れるフォルムが生み出されていた。ランボルギーニは、またしても唯我独尊のコンセプトを貫き、既成概念を打破しながら、他社との差別化に成功する。ライバルメーカーは、ただランボルギーニの行方を見守るしかなかった。

ジュネーブショーでデビューしたカウンタックは、スタディモデルの域を出ていなかったが、誰もが早晩量産化されると確信していた。プロトタイプに搭載されたV12は、伝統の4.0リッターから5.0リッターに拡大。ショーモデルらしいアピールにはなったが、量産するには楽観的にすぎる。結局、量産バージョンでは、再び4.0リッターV12が採用されることになる。エンジン以上に量産化のネックになるのでは、と懸念されたのは、縦置きエンジンの後方ではなく、その前方に搭載されるギアボックスだった。駆動力を受けたギアボックスは、これを減速してディファレンシャルに伝達する。そのために、前置きギアボックスから後方のディファレンシャルに接続するプロペラシャフトをレイアウトしなければならない。スタディモデルでは、エンジンブロックをシャフトが貫通する特異なソリューションが用いられていたが、果たして量産仕様に流用できるのか?その難しさを知る業界関係者は、揃って首をかしげた。だが、カウンタックがスペクタクル性溢れるニューモデルであることに代わりはない。カスタマーは、第1号モデルを手に入れようと早速オーダーを入れる。モーターショー会場を撤収する頃には、相当数のオーダーを受け付けることになった。

ちょうどその頃、世界の産業界、とりわけイタリア産業界に大きな変化が現れていた。構造不況に見舞われた同国では、労働組合が急激に力をつけ、経営陣の手法をあからさまに批判したり、組織体制の刷新を訴える声が上がったのだ。自ら陣頭指揮を執るスタイルをよしとするフェルッチオには、この動きは甚だ耐え難いものだった。1972年、彼は所有株式のほとんどをスイス人投資家のジョルジュ-アンリ・ロセッティに売却。その後、残り株式も友人であるルネ・ライメールに譲渡し、経営から手を引いた。ランボルギーニを設立し、その後8年間にわたって躍進の原動力となったフェルッチオは、こうして同社の歴史と完全に決別することになる。

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