1980~88年:混迷を極める経営環境とクライスラーによる買収


新生ランボルギーニの象徴「ジャルパ」

ベルトーネは、しかし、依然としてランボルギーニの可能性を信じていた。1980年、彼はP300をベースとして、完璧なオープンモデルのアトンを提案した。アトンとは、「太陽への賛美」を意味する単語で、完全なルーフレス仕様のプロトタイプにふさわしい名称。だが、このモデルが量産に移されることはなかった。それより前の1978年にも、ランボルギーニは絶好の機会を失っている。同年、1974年型エスパーダ・セリエIIをベースに、フルアが4シータークーペ・プロトタイプのファエナを製作した。オリジナルの2ドアと同一の全長ながら、ホイールベースを178mm延長して、4座を備えるモデルを提案した。4ドア・エスパーダの可能性も示唆する興味深い提案だったが、当時のランボルギーニは倒産寸前。清算も不可避と考えられていた。

幸いなことに、ランボルギーニは独特のオーラを放ち、カウンタックに代表されるエキゾチック・スーパーカーはずっと人々を魅了してきた。このため、ランボルギーニの清算が決定すると、すぐに複数の買収提案が寄せられることになる。管財人たるミローネ判事に届いた買収案は、単なる絵空事やファクトリー買収のみに興味を示すものも含まれていた。たとえば、後者の場合はファクトリーとともにスペアパーツや完成車両を手に入れ、これを売却して荒稼ぎしてそれで終わり。ほとんど火事場泥棒にも等しい。しかし、本気で同社の買収を考え、さらには存続をも視野に捉えたプランも提出されていた。判事は有力案を慎重に精査した後、セネガルで砂糖王国を築き上げたフランス人、ジャン-クロードとパトリックのミムラン兄弟こそ適任、と判断を下した。

ミムラン兄弟は、自らサンタアガタに乗り込み、全幅の信頼を置くエミール・ノヴァーロとともにランボルギーニ再建に着手する。1981年1月に「ヌオーヴァ・アウトモビリ・フェルッチオ・ランボルギーニSpA」が設立されると、ランボルギーニらしい情熱が蘇る。再建への第一歩は、ジウリオ・アルフィエーリをテクニカルディレクターに据えること。アルフィエーリは、マセラティ黄金時代を支えた天才肌のエンジニアだが、同社の新オーナー、アレハンドロ・デ・トマゾと衝突。ランボルギーニからのオファーはまさに渡りに船となり、アルフィエーリは名門再建という新たなチャレンジに熱い血潮をたぎらせた。

ランボルギーニには、創業当時からのスタッフ(たとえば、ウバルド・スガルツィら)も存在した。1981年3月に開催されたジュネーブショーは、新生ランボルギーニお披露目の場となり、同社はスイス企業によってリスタイリングされたミウラと、巨大なリアウィングが目を引くカウンタックSを展示した。さらに同社ブースには、お蔵入りとなったチータの発展進化バージョン、LM001も持ち込まれた。同モデルは、FMCの権利を侵害しないよう大幅に改良されると同時に、チータの名称も使われていなかった。いずれも素晴らしいモデルには違いないが、真の意味で新生ランボルギーニの象徴となったのは、シルエットを発展進化させたニューモデル、ランボルギーニ・ジャルパである。V8エンジンは3.5リッターに拡大され、最高出力も255hpに増強されていた。スタイリングとエルゴノミクスにも手が入れられた結果、ジャルパP350は、新製品ながらも完成の域に達したモデルとみなされた。ランボルギーニのルネッサンスを支えたのはカウンタックであることに疑問の余地はない。だが、同様にジャルパの存在も非常に大きかったことを認識すべきである。

ミムランによる資本注入の結果、1973年のデビュー以来、多少の外観変更以外に何らアップデートされていなかったカウンタックにも改良のメスが入れられることになった。その任に当たったアルフィエーリは、まず、V12ユニットの排気量を4.7リッターに拡大し、375hpを絞り出した。ワイドタイヤや空力付加物によってある程度犠牲になっていたパフォーマンスは、こうしてオリジナル「ノルマーレ」のレベルに復帰する。カウンタック5000の名称も誇らしいニューバージョンは、視覚的にもLP400Sとの差別化が図られていた。サンタアガタにはもはや財政的な足かせは存在しない。受けたオーダーすべてに応えられる能力を手にした結果、3年間で321台ものカウンタック5000が製造された。わずか数年前とは隔世の感がある。

ミムラン兄弟は、大型ハイパフォーマンス・オフロードという当時としては異例のコンセプトの実現を指示した。1982年、エンジンはオフロード車両の伝統に則ってフロントに移動され、LMAという名の新たなプロトタイプが生み出された。LMAの意味するところは、「Lamborghini Motore Anteriore(ランボルギーニ・フロントエンジン)」あるいは「Lamborghini Militare Anteriore(ランボルギーニ軍用フロントエンジン)」と言われている。いずれにしても、エンジンはもはやアメリカンV8ではなく、メイド・イン・ボローニャのV12。ランボルギーニ・オフロード・プロジェクトに、ようやく持つべき威信が加えられた。

ついに運命が好転する。ジャルパとカウンタック5000Sは、カスタマーの期待に応え続け、販売台数も右肩上がりとなった。両モデルのマイナーアップデートが継続される中、ランボルギーニはオフロードモデルの開発プロジェクトにも鋭意取り組んでいた。大がかりな投資を経て、プロジェクトはLM004に進化、巨大な7リッターV12ユニットにより、ついに最高速度は200km/hの壁を破った。ピレリも同プロジェクトに積極的に関与し、アスファルトからアフリカの砂漠まであらゆる路面に対応するハイパフォーマンスタイヤの開発に成功する。後にこのタイヤファミリーには、ピレリ・スコーピオンの名称が与えられることになる。


テクニカルアップデートが施された「カウンタック クアトロバルボーレ」

オフロード・プロジェクトと平行して、既存モデルのテクニカルアップデートも実施された。1985年ジュネーブショーには、ニューバージョンのカウンタック、クアトロバルボーレを出展。22年前に基本コンセプトが確立された伝統のV12のデザインが根本から見直された。アルフィエーリは、排気量をさらに拡大して5,167ccにするとともに、気筒あたり4バルブのマルチバルブレイアウトを採用。455hp/7,000rpmの最高出力を得たカウンタックは、パワーウォーズでもライバルを圧倒する。また、トラブルと改良、設計変更、改良と長い下準備が続けられたオフロードモデルは、1986年、ついにLM002として市場デビューを果たした。プロトタイプでは7リッターエンジンの搭載も視野に捉えられたが、最終的にはカウンタックと同一のV12が採用された。

ミムラン兄弟とノヴァーロの努力が実って、ランボルギーニのリバイバルは最終段階に達していた。1987年はカウンタックとジャルパのセールスが好調、素晴らしい1年となる。LMのオーダー受付が開始するとともに、新たなプロトタイプ・プロジェクトも立ち上がった。カウンタックの後継モデルとなるティーポ132も同年に始まった。ジャルパにキャンバストップを組み合わせたプロトタイプ、ジャルパ・スパイダー(またの名をスピードスター)の開発も行われたが、技術上の問題から、このスタディが量産に移行することはなかった。

久しぶりに追い風を受けて順調な航海が続けられると思った矢先、「ヌオーヴァ・アウトモビリ・ランボルギーニSpA」が、米国ビッグスリーのひとつ、クライスラーに買収された。1987年4月23日のことである。クライスラーは、イタリア系米国人CEOのリー・アイアコッカの主導により、存続の危機から立ち直っていた。ミムラン兄弟がスタッフに惜しまれつつサンタアガタを離れると、米国主導による新たな積極的なアプローチが採られることになる。ランボルギーニ・スタッフにとって、米国大資本と仕事をするのはこれが初めての経験だった。


クライスラー主導による4ドア、4シーターモデルのプロトタイプ「ポルトフィーノ」

当初は多少のミスもあったが、概ね悪い話ではなかった。たとえば、クライスラーの主導により、ジャルパ・シャーシを延長して巨大な4ドア、4シーターモデルのポルトフィーノが製作されたが、いかにもアメリカ的で、ランボルギーニ精神からの乖離は否めなかった。実際、米国製車両(1986年型クライスラー・ナヴァホ)にイタリアのエンジンとロゴと名称を与えたもので、ハイレベルのバッジチューンといった類にすぎなかった。幸運なことに、このプロジェクトが日の目を見ることはなかったが、同時に米国側は「ベイビーランボルギーニ」の可能性も奪ってしまった。闇に葬り去られたプロジェクトはひとつだけではない。V10エンジンを採用するコードネームL140、そしてベルトーネの会心作、ジェネシスも犠牲になった。1988年トリノショーに出展されたジェネシスは、カウンタック・クアトロバルボーレの455hp、V12エンジンを搭載し、広大なインテリアスペースを誇るMPV。その後、ほどなくして市場にはMPVが溢れたことを考えると、ベルトーネには明らかに先見の明があったと言えるが、クライスラーにとって、ジェネシスは風変わりなスタディモデルのひとつでしかなかったようだ。

その代わりと言っては何だが、ティーポ132は困難な時期を過ごしながらも復活を遂げることになる。時代が巡って再びスーパーカーブームが到来。市場は過敏な反応を見せ、コレクターモデルはもちろん、「ノーマル」な中古スーパーカーの価格も高騰する。クライスラー支配以前のランボルギーニは、ガンディーニを起用してカウンタックの後継モデルの開発に当たらせた。ガンディーニはその期待に応えて、流麗なフロントエンドにマッチョなリアエンドを組み合わせ、意図的なアンバランスを狙った特徴的なデザインスタディを提案する。マッシブなリアは、エンジンコンパートメントで息を潜める強大なパワーを象徴していた。ティーポ132は、ランボルギーニらしさを前面に押し出す美しいモデルであり、クライスラー時代になると、さまざまなデザイナーが名乗りを上げ、プロジェクト自体が肥大化してしまう。当初は1988年、遅くとも1989年には量産バージョンを完成させ、売り手市場の利益を最大限に享受して然るべきだったが、何度もデザイン変更が行われ、延期が相次いだ。適切な時期に市場に投入できれば大きな成功が期待できたものの、結局この有様。時間を無駄に費やしただけだった。ティーポ132がようやく完成した時には、市場が飽和するとともに、ユーザーもいささか食傷気味になってしまった。

だが、カウンタックに対するニーズはいまだ衰えず、ランボルギーニは、新型モデル開発プロジェクトを進めながら、カウンタックの製作にも従事していた。クアトロバルボーレの製造は1988年に終了、トータルで631台がこの世に送り出された。しかし、カウンタックの華麗なる歴史はまだ終わらなかった。すでにコンポジット素材の経験を積んだランボルギーニは、これをカウンタックに応用、スペシャルバージョンのエヴォリツィオーネを製作する。ハイテク素材による軽量化とエンジンマネージメントシステムのアップグレードが相まって、驚異的レベルのパフォーマンスが実現されていた。残念なことに、このスペシャル・カウンタックが量産されることはなかった。また、1987~1988年には、新型モデルの代替として、アルフィエーリが別のスペシャルバージョンを製作、メカニカルコンポーネントや燃料タンクなどの搭載位置を最適化し、エンジン・エアインテークをサイドに移動して空力を改善したこの仕様は、特異な非対称レイアウトから「アシンメトリカル・カウンタック」と呼ばれた。このバージョンも量産には至っていない。

MORE

ガヤルドLP570-4スーパーレジェーラ エディツィオーネテクニカ

ボディカラー
Nero Nemesis(マットブラック)
価格
27,900,000円(税込)

ショールーム & サービスセンター

ランボルギーニ大阪 ショールーム

西日本圏では唯一の正規ディーラーであるランボルギーニ大阪で、ランボルギーニの魅力を心行くまでご堪能ください。

ランボルギーニ大阪 サービスセンター

イタリア・ランボルギーニ本社にて教育・訓練を受けた熟練スタッフがお客様の愛車を真心をこめて整備させていただきます。

  • お問い合わせフォーム
お電話でのお問い合わせはこちら
ランボルギーニ大阪 ショールーム:06-6282-0357
ランボルギーニ大阪 サービスセンター:06-6428-1147

このページの先頭へ