1988~98年:ニューモデル・ディアブロ登場、そしてアウディの傘下へ


ランボルギーニに商業的成功をもたらした「ディアブロVT」

ランボルギーニ・エンジニアリングがF1プロジェクトと取り組む一方で、本家ランボルギーニはモデルラインナップの見直しに着手していた。1988年は同社25周年のアニバーサリーイヤー。これに合わせてカウンタックの後継車種であるティーポ132を登場させる予定だったが、クライスラーの意向により、何度となく延期を繰り返していた。このため、ランボルギーニはカウンタックのスペシャルバージョンを製作、25周年を祝うことになった。クワトロバルボーレをベースとしながらも、外観上の差別化が図られるとともに、水面下で取り組んできたコンポジットテクノロジー開発を応用、さらにエンジンマネージメントシステムにも手を加え、記念モデルにふさわしいルックスとパフォーマンスが実現された。カウンタック・アニバーサリーは、大きな歓声とともに受け入れられ、合計657台が製造された。アニバーサリーモデルは、商業上も大成功を収め、カスタマーにも大いにアピールしたのだが、逆にひとつの疑問を投げかけることにもなった。果たしてランボルギーニには、カウンタックを超えるニューモデルを製作する力があるのだろうか……。

運命のニューモデルは、1990年、ディアブロの名で発表された。ランボルギーニの例に倣い、19世紀の伝説の闘牛から名称を借用したニューカーは、ファンの期待に応えるに十分な完成度を誇っていた。カウンタックの精神を継承するには、相応のクルマではまったく役不足。その点、ディアブロのルックスは、ランボルギーニ・フラッグシップらしい大胆さと押し出しの強さ、非日常性を兼ね備えていた。また、ミドマウントされるV12ユニットは、5.7リッターの排気量から492hpという驚異的な最高出力を発生。担当デザイナーのルイジ・マルミローリは、カウンタックの問題点を洗いざらいにした後、そのすべてを丹念に改良、真の意味でモダンなスーパーカーを生み出すことに成功した。米国側の意向により、さまざまなスタイリングパーツが装着されてしまったが、彼が描き出したラインは、あくまでシンプルで美しい。ディアブロは、スタイリッシュであると同時に、獰猛なまでのパワーを秘めるという二面性を持ち合わせていた。V12エンジンが咆吼を轟かせると、ディアブロは327km/hの最高速度に達した。1990年のデビュー時点では、2WDのみの設定だったが、すでにこの時、4WDバージョンの計画も進められていた。後にこのオールホイールドライブ・レイアウトは、トップレンジ・ランボルギーニの大きな特徴となる。

2WDバージョンから遅れること3年、「Viscous Traction(ビスカス・トラクション)」の頭文字を取り、ディアブロVTと命名された4WDバージョンが、1993年3月のジュネーブモーターショーでワールドプレミアに臨んだ。この頃、再びスーパーカーが低迷期に入っただけでなく、自動車業界全体が新たな危機に直面していた。しかし、ディアブロはアピール十分。製造は順調に継続され、ランボルギーニに相応の商業的成功をもたらしていた。一方、LM002の製造が終了。最終的に301台がこの世に送り出された。

ミムラン兄弟によるクライスラーへのランボルギーニ売却は、予想外の声も聞かれたものの、それなりに納得できる理由があった。クライスラーのような大規模メーカーにとって、ランボルギーニは宝石のような存在であり、その傘下に加えたいと考える理由も十分に理解できる。だが、同社が得体の知れないインドネシアの投資家集団にランボルギーニを売却した理由はまったくわからないうえ、論理性を欠いていると言わざるを得ない。会社の経営にとって波乱の幕開けとなるこの買収劇は、1994年1月21日に実施された。の投資家集団は、英国人や米国人をランボルギーニ経営陣に送り込んだが、こうした人間はランボルギーニの経営にはまったく不的確であることがすぐに判明する。新たなオーナーに支配されたモデナの宝石は、1974~1980年当時以上に激しい迷走を続けることになった。新経営陣は、どういうわけかLMの復活を決定。製造が終了したモデルを復活させ、しかも魅力溢れるモデルに昇華させるには莫大な投資が必要だったが、当時のランボルギーニにその余裕はなかった。また、コードネームL140で知られる「ベイビーランボルギーニ」プロジェクト(新たな層のカスタマーを引きつける原動力になり得た)の凍結も発表された。幸いなことに、LMプロジェクトが再開されることはなかった。


ジョルジョット・ジウジアーロがデザインしたV10エンジン搭載のプロトタイプ「カラ」

複数の難題を抱えるランボルギーニ。経営陣の人間関係も徐々に悪化する中で、ディアブロは孤軍奮闘する。さまざまな派生モデルが登場し、カスタマーの好奇心をくすぐり続けた。たとえば、1995年に登場したSVは、軽量化とパワーアップが図られ、快適性より動力性能を重視したスパルタンなモデル。さらにタルガトップを持つVTロードスターは、特に米国で大ヒットモデルとなった。これ以外にも、SE、イオタ、モントレー、アルパインなど、独自性の高いバリエーションも登場した。また、1995年には、ジョルジョット・ジウジアーロがデザインスタディのカラを発表。V10エンジン搭載のこのプロトタイプは、ジャルパの後継車種として提案されたものだ。非常に興味深いアプローチだったが、量産には至っていない。


ディアブロのサーキットバージョン「ディアブロGTR」

1996年には、ポルシェカレラカップを模したランボルギーニのワンメイク・チャンピオンシップが設立される。このチャンピオンシップ専用に、ディアブロのレーシングバージョン、SVRが製作された。1999年、SVRのロードバージョン、GTが83台限定として登場すると同時に、サーキットバージョンもGTRにアップグレード。わずか32台が製造された同モデルには、6.0リッターエンジンが搭載され、590hpの最高出力を発揮した。

1996年後半、ヴィットリオ・ディ・カプアが社長に就任する一方で、ルイジ・マルミローリが一身上の都合から同社を去り、マッシモ・チェカラーニが後任テクニカルディレクターに収まった。

現行ラインナップの改良とニューモデルの開発への投資が急務であることは、誰の目にも明らかだった。ディアブロはデビューから7年以上が経過しており、当初は秀逸なメカニズムはそのままに、大幅な化粧直しを行うアイデアが提案され、ディアブロのメカニズムをベースとして魅力的なプロトタイプ(ラプター)を開発したイタリアのカロッツェリアに白羽の矢が立った。だが、量産バージョンは、認証上の問題が多く、結局実現には至らなかった。

ランボルギーニは同時に、アウディを含めた複数のトップメーカーに技術提携を打診していた。アウディに対する提案内容は、同社のフラッグシップ、A8に搭載されるV8エンジンの供給を受けて、これを「ベイビーランボルギーニ」のパワーソースとするもの。モデナを訪問したアウディのエンジニアは、インゴルシュタットに戻ると、ランボルギーニの現状(新マネージメント体制、高いプロ意識に裏打ちされた研究開発)を高く評価する報告書を提出した。

当時、フォルクスワーゲン・グループ会長職にあったのは、フェルディナンド・ピエヒ。初代ビートルの生みの親として知られるフェルディナンド・ポルシェの孫であり、ポルシェ創立者フェリーの甥に当たるピエヒは、フォルクスワーゲン復活の立役者でもある。また、若手エンジニアだった頃にイタリアを訪問、ランボルギーニに魅せられたこともあった。ピエヒは、会社経営者の視点からランボルギーニを精査すると、すぐに行動を起こした。1998年6月12日に両社初の合意覚え書きが取り交わされ、わずか50日後の7月27日には、インドネシア投資家が所有する全ランボルギーニ株式をアウディが購入する契約が締結される。それから数ヶ月後、ランボルギーニ経営陣が一新され、ジウゼッペ・グレコ、ヴェルナー・ミシュケ、ロドルフォ・ロッキオ、ハンス-ペーター・ロットレンダーらの重役陣のほか、デザイナーのリュック・ドンカーヴォルケらが送り込まれた。

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